昭和43年7月29日 朝の御理解
日に日に生きるが信心とは?
X 御理解第二十六節「信心に連はいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
この初めの「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ」のあたりは、分かっておる様で分かっていない様な気が致しますけれども、最後の「日に日に生きるが信心なり」というここのところが分かってまいりますと、上の方が段々分かって参ります。「日に日に生きるが信心なり」ほんにこう、力強い、なんとも言えん言葉に力をもった御教えですね。「日に日に生きるが信心なり」そこで、お互いの信心が生きる為に信心をしておる。日に日に生きていく事の為に信心をしておるとゆう間は「信心に連れはいらぬ」とゆう全体的なところは分からんのです。日に日に生きる為に、信心がなされておるとゆうのでは、段々そうゆうところから、生きておる事自体が信心である。生きておる事自体が信心である。同じ事の様でありますけれども、大変違うのですよ。生きる為に信心をしておるんだと、おかげを頂く為に信心をしておるんだとゆうのではなくてですね、もう日に日に生きておるとゆうその事全体が、信心だとゆう事です。ここが分かるとね、「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れが要ろうが。みな、にげておるぞ」とゆう様なところがだんだん分かってくる。生きる為に信心しておるのですから、死ぬる為に信心しよらん。ですから、死ぬる時には、誰か連れていかなさみしいごたる気がする。これは生きる事も、死ぬる事も、ひっくるめて生きる事その全体、その全体が信心。それを信心即生活とか、生活即信心とか云った様な言葉でいつも討議されるところですね。生活の中に信心が、いや、信心の中に生活があらねばならないとゆう訳である。ですから、これはほとんどの人が生活の中に信心があるところから入ってまいります。生活の中に、いわゆる日に日に生きていく事の為に、生きていく事の難しさに気付かしてもらう。人間関係がある、経済問題がある、病気の難儀がある。そうゆう難儀な中から助けてもらいたい。人間関係の難しさがある、生活が楽しくない有難くない、そこに信心を求めていく。そこで生活の中に信心が少し入ってくるはずです。今迄信心のなかった者の世界に信心とゆう有難いものが少しはいってくきた。そして段々信心が有り難いと分かってくる時に信心の占める、いわば、時間とでも申しましょうか、時間が多くなってくる訳です。皆さんの場合なんかは、もうほとんど信心で一日がぬりつぶされるような、日々をおくっておる人もある訳なんです。
やはり、それは要求される事は例えて云うならば、お天気の日には、お天気の信心でいいのだけれど、おしめりの日には、おしめりの信心がなされなければいけない。普通ではいけない。はまらにゃでけん。今迄は例えば、草履ばきでよかったのですけれども、やはり長靴をはくとか雨ゴートを着るとか、傘をさすとゆう様に普通とちった違った、しかもそのしろしい中を行く様に、今こそ自分の家の雨降りだと思われる様な難儀をかかえ込んでおる人。だから、そうゆうのは普通じゃいけんのです。人が一辺参るなら二辺参る、寝る時間でも人が五時間寝るなら三時間でと、例えば云う様にですね、その本気でのはまっての修行がなされる時、こうゆう風にして生活の中に信心が入ってきた。そして一日のうちに何時間とゆう時間をです、信心の時間に費やしてしまう訳です。そうゆう修行を段々さして頂きよるうちに、いわゆる信心のおかげの有難さもさる事ながら、信心の有難さが段々身についてくる。そうするとおかげを頂いてお天気になってもです、もうその信心がやめられなくなってくる。信心が自分のものになってくる訳なんです。初めの間は毎朝、朝早うからお参りしておかげを受けんならんから、こうやって一心におすがりしよるが、いつ迄参らんならんじゃろかとゆう気持ちがある。「一年なら一年がお参りをしますと」神様に誓った人があるかもしれん、そして一年間たったら又楽になるぞとゆうて、一年間参っている内にそうゆう信心とゆうものが生活の中に段々入ってくる。このように有難いものだとゆう体験がね生まれてくる。自分自身の心の中にかつて味わった事のない有難さが段々広がってくる。まあ、初めの間は「いつ迄参らんじゃろうか」と思うておった信心が、これは一年二年でやめられるもんじゃない、一生がやはりこれは信心だ。もう手足の続くかぎり日参をやめないでしようとゆうところになってくるのです。皆さんも段々そうです、生活の中に信心がほとんどを占めてくる様になる。
『朝のすがすがしさ、昼の忙しさ、夜の有難さ』そうゆうものが身についてくる訳なんです。とても寝床の中でこうゆう味わいは味わえない、朝のすがすがしさ、しかもその生き生きとした心の状態で今日一日の御用に取り組んでいく。「ああ忙しか、忙しか」ねえ。その頃にはね、その忙しさの中に、どうゆう事が分かっておるかというと、今迄は自分が働いておった。自分が頑張ろうとしとったけれども、神様から使い回されておる事が分かってくる。いや、むしろ皆さん朝の御祈念の時も願われておると思うのですけれども「今日もどうぞよろしゅうお使い回しをお願い申します」とゆう事になってくる。例えば、お商売をしておる人は一生懸命にお使い回しを頂いておる時には、確かに商売が繁盛しておる時、だから商売が繁盛致します様にと願うよりも「今日もどうぞ十二分にお使い回し頂きます様に」とゆう事になった方が有難い。いわゆる今頃から頂きます様に「神様が御主人で私が番頭さん」とゆう事になってくるのです。そうゆう例えば生き方とゆうかあり方が身についてくる訳なんです。もうへとへとになる程のお使い回しを頂いた。けれども、湧いてくるものは有難いもの。今日一日こうやって健康でお使い回し頂いたとゆう事が有難い。「生きる為に信心をしておる」その生きる為の信心も段々その日々の生活の中に信心が大体を占める様になってくる。
昨日、福岡の渡辺先生の御長男の良治さんがお参りしてきました。毎日、最近は日々生きていく事が楽しゅうなってきた。合楽に日曜たんびに通う事が楽しい。信心の事は分からないけれども、先生にお会いする事が楽しいとゆう訳である。それで参ってくるたんび問題をひとつ提起する。それが解決して帰る。その喜び。昨日もこうゆう事を話される。仕事をしてゆく上にどうしても和の心とゆうのがないと仕事がスムーズにいかない、平和の和です。そこで事務室の一番見える所に大きな額をかけて、和とゆう字を書いた。皆円満にやって下さいよ、この和がないと仕事が能率が上がらん、そこでその和の心を心掛けさせて頂いておると、和を心掛ている者が一番馬鹿をみる事となる。まあゆうなら「馬鹿と阿呆」になっていく訳なんです。馬鹿と阿呆になっていく者が一番つまらん。そして一番、いつも貧乏くじをひいて損をしなければならないとゆうのである。そこで気が付いた。これは私が和とゆうものがですね、仕事がスムーズにいく事の為に和を求める。自分が心の中に円満な和を持っておるとゆうような心が間違っておったとゆう事に気が付いたとゆう訳なんです。条件があったと。おかげを頂く為に和になろうとした。ところが一番貧乏くじをひくのは、和になる、和を一生懸命極めていこうとしておるその人自身が馬鹿らしい事にならなければならない。いわゆる「正直者が馬鹿をみる」とゆう様な事になってきた。そこで昨日廊下で「素直にて雲の上まで上る道あり」とゆう御教えを読んできて、いろいろ感じる処があったとこうゆうのです。仕事が順調にいく事の為に和になるとゆうのでなくて、問題は自分自身が助かりさえすればいいんだ。どの様な中にあっても自分がひっかからない、自分がそれを和の心で受けられればいいのだ。それが、人までが和になる事の為に、仕事がスムーズにいく事の為の和ではなくて、自分自身が助かる事の為の和であればですね、これは願わんでも、私を中心にして和がなされるならば、いわば家内も助かれば親も助かる、子供も助かるとゆう事になる。子供が助かる事の為に和になろう、家内が助かる事の為に自分が和になろうと云う間は、和になった者が一番馬鹿をみるような結果が生まれてくる。そこに信心と信心でない、同じこの和を以ってとゆう和の違いを感じたとゆう訳なのである。仲々素晴らしい事だと私は思う。いわゆる、今日の御理解もそこですね。
とにかく、金光様の御信心は人間臭がプンプンとした宗教ですよ。人間の匂いがプンプンとした信心。痒ければ痒い、痛ければ痛いで、かいてもらいたい、さすってもらいたい。そこんところを素直に願ってすがっていくとゆう事。それで昨日の「願い」について話させて頂いた。願わなければかえって御無礼になるんだ。痛いけれども辛抱しとる。痒いけれども我慢しとるとゆうんじゃいかん。願わなければ神様も喜びなさらん。けれどもそこには願いには願いの筋がぱあっと、こう立たなければいけないとゆう昨日の朝の御理解をした。なる程、金光様の御信心はやはり、生きておる者の信心だとこう云う訳なんです。人間の臭がプンプンしておる信心。それでありながらです、今日私が申します「日に日に生きるが信心なり」生きる事、その事が信心だ、そうゆう事になってくる時にです、どうゆう事になってくるかと云うと、これは神様の心として、又世の中にはそうゆう働きが充満しておるとでも云おうが、助けねばおかん、幸せにせねばおかんとゆう、そうゆう働きがそうゆう心の上に頂けれる。生きる為に信心する。生きる事の為のおかげは頂くだろう。けれども生きる事、その事が信心だと願いの為の信心だと、願った事だけはおかげを頂くであろうけれどもです、願わなくても、日に日に生きるとゆう事。生きる事、その事全体が信心、信心の中にそのほんの一部の様に生活があるのだ。信心とゆうものが非常に大きなものになってくる。もう生活はその一部分なのだ。ねえ。
そして私は渡辺さんに話すんですね、「いる程は風がもてくる木の葉かな」あるひとつの悟りに到達するとね、なる程世の中には人間を生かさなければおかん働きが始まる。必要なものは必要に応じて頂ける様になるのだ。自然が持ってくるのだ。わざわざ山にたきものを取りに行かんでも自然がもってきてくれるのだ。しかもそれがです、例えば良寛の五合庵のお話をしたんですけれどもね、仏教的な生き方をすると、五合あれば事定りるのだ。一日がやっていけれるのだ。それ以上のものは置かない。金光様の御信心は五合じゃない、一升じゃない、一石、いや一石以上のもの、とにかく米倉建てる程の中に、おかげを頂いていくのがお道の信心なんだ。そして私が次の御理解を申しましたら、金光様の御信心の素晴らしさに目を輝かすとゆうのですが、金光様の御信心はね「日勝り、月勝り、年勝り、代勝り、めでためでたの若松様よ、枝も栄えりゃ葉も繁るとゆうではないか、生神金光大神の道は子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃ」とゆう様に、今日よりも明日、今年よりも来年とゆう様にね、繁盛してゆかなければならないのだ。その為にお道の信心では、この様な生き生きした修行が続けられていくのだ。しかも、修行が続けられていくとゆう、その修行が楽しゅうなってくる。それが自分のものになってしまう。もう修行全体が私である。信心全体がもう生活である。いや、信心の中に生活があるのだ。これが段々大きくなってくるところにです、限りない、いわゆる無尺蔵の徳とゆうか、いわゆる、めでためでたとゆうおかげになってくるのであり、子孫繁盛、家繁盛のおかげの頂けれるおかげであり、しかもそれがあの世にも持ってゆかれる、この世にも残しておけるのだ、とゆう様に私は話たんです。子孫繁盛するとゆう事がその人にとっては魅力じゃない、魅力ではないけれども、生きる人間の、生な人間の、頂く信心にこの上もない信心があるだろうか、この世では仕方がない、あの世でといった様なものでなくてです。それには、どうでも私共の信心が、生活が信心の中に生活が段々入っていって、生活の中に段々信心が大きくクローズアップされてくる様になり、そして最後には信心全体の中に生活の一部があるのだ。ここに到った時に初めてですね、「日に日に生きるが信心だ」とゆう事が云える。もう生きる事その事が信心なんだと、そこで『朝のすがすがしさ、昼の忙しさ』とゆう事が分かってくるでしょう。朝のすがすがしさ、その生き生きした心をもって、「今日一日もどうぞお使い廻しを頂きます様に」とゆう事になってくるのである。自分が働くのじゃない。お使い廻しを頂くのだ。そこで、又ここで願われる事はです、お使い廻しを頂きたいけれども私の様に使いにくい、素直でない、汚れ果てた私なのだから、お使いにくうもございましょう、けれどもそこを曲げてお使い廻し下さい。見直し聞き直し、悪い所はそれこそ、袖やたもとに入れて下さって使うて下さいとゆう事になってくるのです。唯、お使い廻しを下さいだげじゃいかん。自分とゆう者を段々見極めてくると、この様にぎこちない私、素直でない私。使おうと思うても、使いにくいだろう。使いにくかろうけれどもお使い下さいとゆう、だから自分で出来るかぎりの事は、やはり素直になる事も務めましょう。美しゅうなる事にも務めましょう。それでもまあだこれでよいとは思いません。そこでお使いにくうもございましょうけれども、どうぞ十二分にお使い廻し頂きますようにとゆう様な願いがいる訳です。
こう段々分かってまいりますとね、なる程信心には連れはいらぬとゆう事が少し分かってくるでしょう。生活の中に信心がある間は、いわゆる死ぬるにも連れがいる様な気がする、そうゆう信心は人が逃げておる。けれども、今日私が云う「日に日に生きる」生きる為のゆうなら信心から、生きる事その事が信心だとゆう事に段々なって参ります時にはです、もうそこには、おかげとか御利益とかげさくかと云うておる人でも、目を輝かせずにはおかん様になってくる。御利益なんかをゆう信心は低級だなんてゆう人があるんですよ。そうゆう例えば私共なんかも、それを云ってきたんです。ねえ。和とゆうものはね、仕事がスムーズにいく事の為に和であってはいけない事に気がついたとゆうのですから、おかげとゆうものなんかは、いわばげさくか、心が助かりさえすればいい。ところがお道の信心によって、心が助かってくれば、これはいらんと云うてもおかげ下さる。しかも、それが大きくなってくればくる程にそれが家繁盛、子孫繁盛になり今年よりも来年、来年よりも又次の年とゆう様に繁盛してゆく。いわゆる「目でた目でたの若松様よ」とゆう様な雰囲気の中にお道の信心が展回してくる。日に日に生きる事。だからここの処を一辺に出来るとは思いません。そこでここで求められる事は修行なのです。今自分の家は雨降りだから、長靴も履かなならん。傘をさして行かなならん。しろしいもあるけれども、そこを辛抱しぬかせて頂きよるうちに、その事が自分のものになってくる。雨の降るしろしさどころか、有難さが心に頂けるのを感じるのです。そこに私は修行の必要制を感じるのです。一年参りゃよかろうと思うたのが、もうとにかくやめろとゆうてもやめられんごとなってくる。いわゆる「一生が修行じゃ」と云う教祖の御教えが分かってくる。生きる事全体が信心になってくる。大変むつかしい事ですからね。まあ、分かりにくかったろうと思いますけれども、これをもう一辺、平易な言葉で御理解下さっておる。この御理解をもう一辺読んでみます。そして私が云うたところを、ところどころはさんでいってもらって思うて、どうぞ少しでも分かっていただければ有難い。そして「日に日に生きるが信心」とゆう事がどの様に有難い事か。初めの間は生きる事の為に信心しておったのが生きる事全体が信心である事が気付かせて頂いた。よくよく考えてみると、日に日に生きるとゆう事は、日に日に自分が空しゅうなっていくとゆう事。ゆうなら日に日に死ぬるが信心だとゆう事も云えるのだ。自分とゆう過去が無くなっていくのだ。おかげを頂く為の信心が段々無くなっていくのだ。我情我欲がなくなっていくのだ。そしてその自分が空しゅうなった時。日に日に生きるが信心なりとゆう事が本当の意味で分かってきた。もう日に日に亡くなる稽古をしているのですから、死ぬるに連れがいるはずがない。そうでしょう。しかもそうゆう自分とゆうものが、いよいよ空しゅうなりきれた信心が出来る所からです「いる程は風がもてくる木の葉かな」とゆう様に、限りないおかげが無尺蔵に持ってきてくれる。ゆうなら、「成り行きがおかげを運んでくれる」そこで「成り行き」をいかに大切にしなければならないかと、日頃私が解く事が段々分かってくると云う様に今日の御理解はむつかしい御理解なんですね。
もう一辺読んでみます。「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」言葉に表れている御理解は容易いけれども、この内容に触れたら、実に難しい御理解。しかもこれは実に教学的である。まあだ、これで言葉がすんだとゆう事ではない。なんぼでも教学的にこれからしていこうと思えば、出来る御理解です。その一端を今日は申しましたですね。どうぞ。